不謹慎な妄想
息子が軽中度難聴ということが最近わかったので、
それについて考える事があるのだが、
今、ふと、
「自分が今、この状態から聴力を失ったら」
という妄想にふけった。
しばらくは失意の底へと落ちるだろうが、
ドストエフスキーは言った。
「なんにでも慣れる特徴をもつのが人間だ」(訳はオレ流) と。
聴力を失ったことに慣れた頃から、音楽が素晴らしく楽しいものになるのでは
ないだろうか?
聴こえていた半生に培ったあれやこれやを駆使して音楽するのだ。
好きだった音楽を脳内再生する。弾いていたギターやピアノを
演奏し脳内再生する。
それはひょっとして、聴こえた時よりも音楽が生き生きとしてくるのではないか。
現実は時に無味乾燥だが、脳内再生は芳醇に潤っている。
という妄想。若干不謹慎な言い方だが、妄想してしまった。
息子はまだ幼いので、できれば聴こえる生活をしてほしいとのぞむが、
聴こえない人が不幸というわけでもないのだから、
聴こえてほしいという想いも、実は不謹慎なのかもしれない。