運命と超能力
運命を信じているか?
僕は信じている。
信じているというよりも、
当たり前のハナシだ。
宝くじに当たるのも、当たらないのも、
交通事故に遭うのも遭わないのも、
運命だ。
運命とは劇的にふりかかってきた事実ではなく、今を過ぎた時点であなたの目の前にある現実、それこそが運命だ。
生きている限り運命生活は続く。
たとえば、自分の子どもに理想と期待を持って子育てをする。
だが子どもが誰に、何に出会うかはコントロールできない。ラジオから流れてきたロックに出会ってのめりこむかもしれない。公園で痴女に出会い性的に屈折するかもしれない(僕の友達の話だ)。先生に影響を受け微生物の研究に没頭するかもしれない。学校の席替えで隣に誰が座るかは誰にもわからない。車がパンクしたおかげで後から人生が好転するかもしれない。
と、そのような無限ともいえるパターンの出会いを経て、「現在の私」が形成されてゆく。その過程と結果を運命と呼ぶならば、運命は信じるとか信じないとかいうレベルではなく、生きることは運命を受け入れてゆく行為にほかならないのではなかろうか?
そういう意味で、僕は運命を信じている、というよりは受け入れている。
(人生計画が無意味だとは思わないが)
超能力についてはどうか?
こちらも定義によるが、
超能力も当たり前の話だ。
ただ、念力とかテレパシーとか瞬間移動とか、
そういう、ことではない。
犬が人間の嗅覚に比べ、ダントツに優れているという超能力、そういう能力のハナシだ。
人間はそういう意味でダントツの超能力者だ。
愚かな我々ではあるが、
人間の中にとてつもない人たちが何パーセントかいたおかけで現在の便利社会がある。
僕はいつも自慢げに言うのだが、たとえ100回生まれ変わったとしても、光に速度があるだなんて気づかなかっただろう、間違いない、と自信を持って言える。
人間は愚かだが、信じられないほど天才的でもあり、それを僕は超能力とよぶ。
しかし学校や世間に身を置くと、どうしても平均化されてしまう。社会の中で生きていくには社会のマナーを知らねばならない。それも必要だ。
だがそれはある意味合いにおいては、羽をもぎ、牙を折るようなものなのだと僕は思う。
本当は誰しもに超能力があるはずだ。
気づけ、目覚めよ 新しいひとよ
↑怪しいね〜笑