以前、数回だけこのブログに自分の息子が軽度から中等度の難聴だと記した。
現在は重度難聴に診断が変更、障害者手帳(6級)を持っている。
(今のところ進行性ではないという診断だが、検査を重ねる中で重度に変更された。幼児の聴力を検査するのは相手が幼児であるが故、難しいのである)
補聴器を付け、普通の保育園に通いつつ、言語の療育施設等にも通う中、
世間の平均的な成長に比べると息子の言語能力はだいぶ低い。
難聴のレベルを置いておいて、正直に言うと、自分が障がい者の家族になるという気持ちはなかった。
晴天の霹靂という気持ちだった。
でも本当は明日(今日このあとだっていい)事故にあって
障がい者になる可能性は等しく誰にもある。
明日生きている保証だって誰にもない。
ただ、経験的に日々そうならなかったおかげで、
「多分そうはならないだろう」という日々を過ごしてきた中、そうはならないと感じているのではないかと思う(ややこしい?)。
あるいは、とくに、死への恐怖に正面から向き合うと、人は生きていけない
らしい(死にたくなるのかな?笑) ので、向き合わないように楽天的に創られている、という説も聞く。
障害に対しても同じようなものかもしれないな。
不安に蓋をするというのはある意味、健全なしるしなんだ。
でも実際に僕は現実的に、障害のある子どもの親になった。
息子の耳があまり聞こえていないという事実を知った時、
もちろんショックがないわけではなかった。
でも、親というのはおそらくある程度、親になった責任として
肝が据わる部分があるのではないか。落ち込んでいるわけにはいかない。
「勉強の機会を与えられたのだ」
という気持ちが強く、ショックを受けた時間は短かった。
まぁ元気に生きているんだしな、という気持ちもあった。
そんなこんなで、僕が記したいのは、本当は自分の心情ではない。
いかに現代社会が健常者向けに出来ているという発見と実感、
障害者に対する世間の目や理解度。
そういう自分の中の新たなテーマについて記したい。
でも今日は記さない、疲れたから。
障害について話すとき人は真面目(シリアス)になる。
そういう側面が嫌な人達が作った「バリバラ」という番組も
あるよね。
最高の理想はおそらく、障害があってもなくてもフラットに
暮らせる事。それには世間の理解と、物理的な街のインフラが
整うことが必要だ。
目の見えない人が、目が見えなくても1ミリも不便しない
社会だったら、それは障害ではなくなるのだ。
あるいは、はじめから全員の目が見えなければ、それは障害ではない。
過激な意見だろうか?いいや発言は自由なはずだ。
おそらく無意識的に「障がい者はかわいそう」という心理があるから、
あまり突っ込んだ事はいいにくくなる事も特徴だ。
大事なのは言葉の内容ではなくその中にある本当の気持ちだ。
そういう信念のようなものを持って、発言していくことが、
誰かの胸をくすぐって、気持ちが動き、社会が動いていく、
そういう事に少しでもなる事を期待して、
たびたび発信していこうと考えている今日。
以上。